芹沢一也著:「ホラーハウス社会」、法を犯した「少年」と「異常者」たち

大量のコメントが入り、投稿日時を更新しました。内容更新は、コメントの追記のみです。

とうとうこの本を読み終えた。芹沢一也著:「ホラーハウス社会」、法を犯した「少年」と「異常者」たち、だ。読み始めた時は、アマゾンのカスタマーレビューは「ゼロ」だったが、今日見たら4件(29日に私のレビューが追加され、5件となっている)掲載されている。このレビューを観ていると、とても自分のレビューを公開するだけの自信がない。本職の「精神科医」もいる。自分は、SE上がりの老人だ。でも、市民としての意見も言わせてもらおう。

追加の記載です

2006年3月27日に、著者からのコメントが入ったので、それをもとに、私も1冊ではあるが、著者としても同じ世界を生きていると言う認識に立った上で、私の著作方法・読書方法について記す。

  • 誤解を与えないような書物を書くことは至難である。
  • 題名・要約・結論・章建て・サブタイトル・章のタイトルなどが、読者をガイドする重要な指針であり、そのため、商業主義に則った「売れる題名」を付けること、章タイトルは十分に吟味する必要がある。
  • もちろん、本書のような別の筆者による「解説」があれば、その内容は、その書物を十分に理解した人が書いていると判断する。
  • 読者は、筆者の与えるガイドに従って読んでゆく。少し前のことは忘れる可能性があるから、しおりを挟みながら読むが、全体像として捉えるので、細部の記載は全体像の中に溶け込んでしまうので、重要なポイントは、章タイトル、節タイトルなどに挙げる。


  • まあ、こんな感じを持ちながら書物を書くのが私のスタンス。また、この読書感想文は、これで金を貰っている訳ではないから、自分の言いたいことを本を題材にして編集する可能性があることは否めない。(なるべく正反対にはならないようには心がけるが)

    この本の著者の「はじめに」の結論、などに関する追加のコメントです


    こうしたいくつもの要因が交錯するなかで、近代社会が長らく保護してきたものたちが、きわめてグロテスクな存在へと変貌してゆく。そして、その変貌とともに、わたしたち自信の日常もひずんでいった。・・・・わたしたちの「奇異なる日常」の来歴をこそ解き明かそうと思う。

    この文章を読んで、筆者は、「近代社会が長らく保護してきたものたちが、きわめてグロテスクな存在へと変貌してゆく。」のは、心外であり、私たちの日常がひずんでいるのだ。その「来歴」を示そう、と言っていると、私は判断している。

    結論に至る著者の道筋

    もちろん、この筆者は、過去100年来の「少年」「異常者」を保護する社会を良しとはしていないらしいが、2章、3章、4章を使ってこれらの保護された対象物が、近年どのように扱われるようになったかを解説し、それは「怪物」を作り出した異常なプロセスであると言っているように見えるし、思える。「ドューデリジェンス」に基づかないプロセスであると書いてあり、[力を持ってはならない:ブログオーナーのコメントです]社会がそのような「怪物」を作り出した一番の根本であると書いてあるように見える。しかし、本当にそうなんであろうか。我々社会に住んでいる人間は、力を持ってはならないのだろうか? 被害者家族は団結して、司法に対して行動をしてはならないのだろうか? 今までは、人権派の弁護士達により、加害者が保護され、それらに関する情報すら提供されていなかった経緯を良く考えてみよう。それに対して、彼ら「被害者家族」が団結してそれを公開するよう、また、成人と同じ刑事罰の裁定を受けるよう要求したのではないのか? 私はそれは間違っていないと思う。この著者は、繰り返し繰り返し「社会」が「怪物」を作り出した、と言う(203ページ「怪物」として排除する方向へと変容した)。215ページには、「わたしたちの社会が抱え込んだ怪物がもたらす不安、これをエンターテインメントとして消費しようとしているのだ。」と書いてある。冗談ではない。少年Aが自分の近くに住んでいるとしたら、その恐怖たるや、すごいものであろう。だから、私は犬を飼う。私を「異常であると」は、誰にも言わせない。

    著書の結論の記述について

    最後に、218ページに「自分だけが境界線を踏まないと信じ込んでいるとすれば、それは悲しいほどこっけいで危うい自負でしかない」とあるが、私は、自分たち、自分の家族がいつそのような境界線を越える可能性があるかも心配しており、そのため、私はSE上がりの老人であり、社会科学に素人ではあるが、別のブログで「社会の壁」を連載している。200万人のフリーターを抱える家族は同じ気持ちではないだろうか?老人のニートの子供殺し、ニートの親殺し、など、考えただけでも恐ろしげの事件だって頻発している。ついこの間だって、引きこもりの中学生が、家に放火し、幼児が死亡したではないか。我々はいつこのような境界線を越えないか、心を痛め毎日を送っているのだ。

    我々庶民の心配は、「怪物」ばかりではありません

    このような、犯罪に対する怖れ・恐怖・不信があるのと同時に、200万人のフリーター、64万人のニートを抱える家族について考えたことがあるのだろうか?あなたはそれほど、日本人の庶民の生活に関して無関心なのだろうか?すでに、別のブログで記載しているから、詳細は省略するが、彼らの親・兄弟に対し、最終的には社会に対し、膨大な経済的な負担をかけることになるのだ。ひょっとして、ニート、フリーターを抱える家族は、裕福な部類に入るかもしれない。だって、何もしない人間を5年から10年扶養する事が出来るのだから、1,000万円から2,000万円の資産を持っている訳だ。「親が諦めた時に、その親の期待と言うストレスが本人から解き放たれ、それによって、本人はニート状態から立ち直ることが出来る」という、非常にショッキングな記述があるくらいなんだ。ひきこもり当事者と家族の出口 寺子屋新書です。だから、これから数年の間にそれが終了し、まともな人生を歩みだすと言う保証は全く無いから、この負担は今後も継続されると考えなければならない。そうすると、生活保護」「障害者登録」「知的障害者登録」などをして、保護によって生活することになるとすると、これらの人には、年間100万円以上の社会的な負担を地方自治体に与え続けることになる。だから、日本のこれらの家族は、犯罪に対する不安以外に、経済的な不安を抱えて日常を送っていることを忘れないで欲しい。あなたの著作の最後の記述「・・・・悲しいほどこっけいで危うい自負でしかない」は、あまりにひどい記述ではないか。

    我々が異常なんではない。絶対に違う。

    我々が、「異常」になったのではない。「異常」なのでも無い。正常なんだ。お互いに監視するようになったことも異常だと言うが、そんなことは、日本においては、都会においても、地方においても、村社会が機能しており、自治会が機能しており、民生委員が機能している現状で、何を根拠に「急に監視社会になった」と言うのだろうか?Nシステムのようなプライバシーを侵すシステムを警察が導入して久しい。監視の最たるものではないだろうか?「少年・少女、幼女など未成年者」を対象とする「性犯罪」は、累犯が多いと言うことは、世界の常識だ。その常識に従って、これらの犯罪者に対するフォローアップをするべき義務を果たしてこなかったのは、日本の社会ではない。権力側ですよ。人権派の人たちですよ。少年Aはすでに、野に放たれています。自分の保護観察をしてくれた自分のカウンセラーに恋心を抱いて、...。我々にはそれらの情報すら公開されません。あなたはご存知かも知れないが。これらの累犯の危険性のある人物が多数いるとすれば、彼らの情報の公開を求めるのは我々の当然の要求だと思うが。我々の要求が間違っている(異常だ)なんて結論には達することはできない。(芹沢氏のコメント記入に対し、2006年3月27日追記した。荒れた文章は徐々に修正する。コメントは直接メルアドへ送ってくれても結構です。caro_ideale@yahoo.co.jp)

    本論:「芹沢一也著:ホラーハウス社会」の読書感想文


    とうとうこの本を読み終えた。芹沢一也著:「ホラーハウス社会」、法を犯した「少年」と「異常者」たち、だ。読み始めた時は、アマゾンのカスタマーレビューは「ゼロ」だったが、今日見たら4件掲載されている。このレビューを観ていると、とても自分のレビューを公開するだけの自信がない。本職の「精神科医」もいる。自分は、SE上がりの老人だ。でも、市民としての意見も言わせてもらおう。

    直截に言うと、私はこの「芹沢氏」の意見に反対である。むしろ、「解説」の筆者、藤井誠二氏の意見に近い。なぜ芹沢氏はこの藤井氏の解説を巻末に掲載するようなことになったのだろうか?自分の偏りの無さをアピールするスタンスであろうか?アマゾンのレビューでは、ほとんどの意見は「芹沢氏」の主張を受入れて評価している。本書は、100年以上も続いた「少年」と「異常者」を人(成人)として取り扱わないで、法の下での裁判を受ける権利をはく奪してきた、その「保護する社会」を正しいとしている。「神戸連続児童殺傷事件」などを契機として、少年法が改定された。人(成人)ではない「少年」が犯す犯罪は、それを罰するのではなく、それを犯す少年を「保護」し、「更生」させる「少年法」から、少年以外の「人」と同じく「刑事裁判」を受けるようになった経緯を詳しく説明する。しかし、著者はそのことを問題とはしていない。そのような法改正を要求した社会が「変化」した、それが問題であるとしているのだ。そして、そのような社会を「ホラーハウス」社会と言っている。ホラーハウスとはどういう意味だろうか?私には分からない。

    この本では、「少年犯罪」と同様、「精神障害者」の犯す犯罪に関しても、同じようなストーリーを見いだしている。今までの法では、「精神障害者」は、その犯行の動機が理解不能なため「不起訴」となり、処罰のプロセスから除外される。その「障害者」は、時代により「精神病院」に措置入院されるか、「触法精神障害者」として、指定病院に入院・通院を強制され、その状況が常に監視される(医療観察法)。この「医療観察法」の立法化を推し進める契機となったのが、少年法の改正の契機となった「酒鬼薔薇事件」少年Aと同様、池田小学校での殺傷事件を引き起こした「宅間守」であるとする。これも、社会の要請がそのような法制化を推し進めたと言う。「教育の対象としての少年」が刑罰の対象となったのと同様、「医療の対象としての病者」が保安処分されることとなった。

    筆者は、両者に共通して、社会がそのように変化をしたと言う。すなわち、不安にとりつかれた社会となり、この社会が「教育」「医療」で対応すべき者を、マニュアルで排除しようとする「観察・監視社会」となったと言っている。その社会は、あるレビュアーに言わせると「隣組」と同様、恐ろしい社会であると見る。(このレビュアーは、日本の社会が村社会で、常に監視してきたことを知らないのであろうか?そんなにこの人は、ナイーブなのだろうか?)

    この筆者のバックには、「凶悪犯罪」「少年犯罪」共、このような法改正を必要とするような状況ではないと言う意見がある。すなわち、近年になりこれらの犯罪が急増したのではないと言う。むしろ減少しているのにこのような法改正を要求するのは、社会がそのような「怪物」を除外しようとし、その行為はその社会のとっては「快楽」なんだそうだ。団地の入り口や公園に監視カメラを設置したり、24時間体制で監視する「セキュリティタウン」の出現がそれを「エンターテインメント」として消費する社会の象徴であると言う。もう20年以上前から、あらゆる高速道路にNシステムと言う車の監視カメラが設置され、全ての通過車両の車番をデータ化して居るのをご存知だろうか?ずっと前から、我々のプライバシーは侵され、監視されていたのだ。何もこれらの事件によって触発された社会ではない。ジョージ・オーウェルの1984年の社会、「Animal Farm:動物農園」はすでに存在しているのだ。私の家には20年前から、インターフォンはTVカメラ付を導入している。当然、訪問客もその監視の下に置かれているのは、ここ数年ではない。

    当然要求するべきことを要求する社会を「犯罪を快楽として消費する社会」と断罪することは許されることではないと思う。明らかに「芹沢氏」の論点は間違っている。隣組は戦前にも存在したし、近年になって急にそのような組織が出来たのではない。日本の村社会は、都会においても常にお互いを監視してきていたし、監視している。それを忌み嫌っている私は、「Nシステム」や、「各所に取り付けられているモニター」は非常に遺憾であるが、それを取り付ける社会を「けしからん」と言うことは出来ないと思う。警察が組織としてNシステムを取り付けることは反対であるが、それにより犯罪者が早く逮捕されるならば、良しとしよう。しかし、最近は凶悪犯が逮捕される率が減少しているような気がするが。<この当たりは、論点が曲がってしまった。>

    結論を言おう:我々の社会は、村社会として「監視をしてきた社会」である。しかるに、法規制で「少年」「精神障害者」の犯した罪を、「成人」と同様に刑罰の対象として扱わず、逆に「被害者」からこれらの加害者を保護することは反対である。「被害者」が一番疎外されるような法はおかしい。だから、近年の法改正は賛成であるし、我々がホラーハウスに住む住民で、ホラーハウス社会と言われるゆえんは無い。(ホラーハウスという意味すら私には不明である)

    最後にもう一言言わせてもらおう。今まで人権派の弁護士などに阻まれて、被害者家族が声を大にして言えなかったが、その家族達が、団結して、「少年」「精神障害者」の犯罪に対して、情報を公開するよう、また、成人と同様の刑事罰に相当するかどうかを審判するように求めた結果である。彼らが初めて行動を起せるようになり、それに対して社会もかなりの多くの人が賛同を表明するようになったため、法制化が進んだのである。私の常々の主張である「行動を起さない限り何も実現しない」と言うことを身をもって実践されたから実現したのである。

    たとえば、拉致家族被害者連絡会の人々は、あのような状況で、結束を固め、何もしない政府に対しての闘いをし、北朝鮮への経済制裁を要求してきている。しかし、世間の賛同が必ずしも得られていないために、それが実現に向かって進まない。非常に残念な状況である。それに対して、この本で話題に上がっている犯罪に対しては、しかるべく進んでいると思っている。これは、被害者家族が結束を固め、行動を起した結果であると思う。人権派の弁護士達の大きい壁を打ち破る力になったのではないか。

    これらを総合すると、我々の社会は、若年者層の[自分以外の]世界に関する無関心を除き、行動する集団が育ちつつあるようだ。これをメディアが食い物にしたり、また、一般市民がお昼のワードショーを見るようなつもりで、第三者として観戦・快楽として消費することが無ければ、社会としては、むしろ健全な方向に進みつつあるように思える。私が別のところで書いているように、我々が何をするべきかを考え、それを実行に移すと言う「行動」を起すことによってのみ、我らの社会は良くなってゆくと思う。そう信じたい。だから、この芹沢氏の本に記載されている「歴史としての事実関係」を尊重するとは言え、それの原因を、そのような「病んだ社会」になりつつあると言う意見には賛同できない。

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